最終ポジション:
ウォルトディズニー・アニメーション・ジャパン株式会社
スーパーバイザー/チーフディレクター
(株)アンサースタジオ
FLAG 監督
上京
街にはヒッピー、フーテンが溢れ、学生運動の嵐の真只中、芸大油絵科を目指して上京する。デッサンスクール三校を掛け持ちし、毎日十時間以上の石膏デッサンに励むが、大学進学の夢は叶わず。
アニメーションへの道
虫プロダクション撮影部でのアルバイトを経験、後に株式会社双栄CMに入社、実写でのテレビコマーシャル企画、演出の仕事を始める。
ドラマ制作への魅力は捨てきれず、再び虫プロに戻るが倒産。以降フリーとして独立。サンライズスタジオ演出部をはじめに、国内のプロダクションにて、本格的に絵コンテ、演出の現場実績を積む。
日・仏・米・合作の時代
東京ムービー/K.K.C&D/ウォルトディズニーにおいて、フランス、アメリカとの合作にたずさわり、台湾、上海、ロサンゼルス、パリ、への渡航が続く。
合作への移行によって、いちディレクターである以上に、スーパーバイザーとしての役割をも担うことになった。合作する両国のシステムや国民性、いろいろな事情の違いを摺り合わせ、合理的で無理のない作業手順、責任分配、ルールの基盤作りに資力した。
この事を通して、エンターテイメントとしての映画、ドラマに対してのインターナショナルな視野が広がった。創造をシステムに組み込むこと、作品化していく工程での各国人の考え方の違いを知り、創作に対する多くの視点を学んだ。
アナログからデジタルへ
山本又一郎氏プロデュース、大阪大学と東洋現像所共同制作の日本初3DCGによる劇場用映画タイトルの製作にディレクターとして参加。映画「トロン」の予告タイトルを作る。当時大阪大学に作られた最新鋭のコンピューターは、今では各家庭にあるパソコンにも劣る程度のものということになるが、当時は一つの教室を埋める巨大なものだった。
東京ムービーに於いて、コンピューター制御の日本最大多層マルチ、高精度のカメラワークが可能になる、35ミリ撮影台の企画設計を担当する。これは日本で達し得た、最高で、そして最後のフイルム撮影台になった。
それから十五年ほど後、アニメーションの撮影はフイルムからデジタルへと変わることになる。
高精度のフイルムレコーダーの開発が進み、CG映像が劇場映画に使われることが現実的になりつつあったころ、東京ムービーの劇場映画「リトルニモ」の製作に加わる。
ゲイリーカーツ氏(スターウォーズのプロデューサー)の総指揮のもと、ロサンゼルスでアメリカのスタッフと準備にはいった。
ここでは、リアルなCG映像を、手描きのアニメーションの中に、どのようにして融合させていくか。アニメーションに於いて、CGはどのような新しい表現を可能にするのか。それを開発し、パイロットフィルムに起こし、現実化した。
実際に紙に絵の具で描かれた素材をコンピューターに取り込み、それをコンピューターが作る立体の表面に、壁紙を貼るように貼り付けていく。このマッピングという技法を応用した表現は、コンピューターによって作られた映像ではあるが、従来と同じ手描きのマチュエールによって立体が覆われているため、CGと他の手描きの部分との違和感を緩和し、手描きのアニメーションのなかに溶け込ませることができるようになった。
これによって、今まで二次元のカメラワークしかできなかったアニメーションの、三次元カメラワークを可能にした。
当時、この他にもCGに関わる多くの技法を開発したが、今では、それらの技法のほとんどが、どのソフトでも容易にできる時代になっている。
現在
アメリカ流のエンターテイメントは、デジタルという新しい技術を得て、表現はこけおどかしと思えるほど大げさで益々刺激的になっている。
たしかにそれは一瞬間に多くの人達の心を集める。しかし、すぐに忘れられる。
そこで、また次を作る。連続した大量生産と大量消費の繰り返し。
たとえ私が創るものが、その大量消費物のひとつだとしても、深くいつまでも心の中に残るものを創りたいと思う。
受賞歴
1995年: (アメリカ)ゴールデンリール賞受賞
1995年: (アメリカ)アニー賞(絵コンテ部門で、個人に与えられた賞)受賞